哲学カフェとは

ずっと書こう書こうと思って、書かなかったこと。

このブログのタイトルとなっている「哲学カフェ」という言葉があります。
「哲学カフェって何?」と思う人も、多分いるだろうと思ったので、
簡単に説明書きをしてみますね。


哲学カフェは、1992年にパリのカフェで、
マルク・ソーテという哲学教師が始めた「開かれた哲学の対話」です。
※実際の内容は、マルク・ソーテ『ソクラテスのカフェ』(紀伊國屋書店)を参照。

一般に、哲学は難しいもの、なくても困らないものと考えられています。

しかし、学生時代に哲学を学んだ僕なりの解釈は、
「学問全ての根本であり、全ての人の根底に素質のあるもの」
でした。

だからこそ、学問のひとつのジャンルにおさまらないのだ、
一般に開かれたものであるべきだと考えました。

そして、それを実践していたのが、彼でした。


「生きるとは何か」
「存在とは何か」
「環境とは何か」
「学ぶとは何か」
「大人とは何か」
「家族とは何か」
「戦争とは何か」

人は多くの疑問点にぶつかります。
それを、対話という形式で、語り合う場を揃えたのです。
(哲学書では通常、哲学は独白形式と思われていますが、
古代ギリシアのソクラテスが行っていたものは、
産婆法といわれる、相手に気づかせる対話でした。)

パリのカフェで、見知らぬもの同士が思うところを語り、
だんだんと話の本質が深まっていく。

インターネットで探すと、日本でも影響を受けて行われているようです。


「そうだ、インターネットでそういう世界ができないかな?」
そういう気持ちの強かった頃にできあがったのが、この名前でした。

できたて当初はそういう流れがあったんですよ。
これがなかなか難しく、
自分が正しいと思う人ばかりだと、話が何も発展しないんです。
「だって、こうなんです」と言い切られたら、対話にならないんです。(笑)

「相手の価値観も許容しながら課題を深めたい」という気持ちがないと、
対話というのはできないんだなと学ばせてもらいました。

もうずっと昔の話です。



【雑談】
折角なので、哲学のお話を少し。


哲学という視点から見ると、
「心とは何か」という問いに対する答えのひとつが心理学であり、
「法とは何か」という問い対する答えのひとつが法学であり、
「数とは何か」という問い対する答えのひとつが数学であり、
「宇宙とは何か」という問い対する答えのひとつが天文学です。

今は、どの学問もが「科学」と呼ばれ、
科学的手法を用い、科学的根拠に拠り所を築いています。
だから、心を知るために心理学を学んだり、法を学ぶために法学を学びます。

しかし、それらはあくまでひとつの形でしかない、
他の答え(形)も可能だというのが僕の哲学のスタンスです。

この考え方は応用がききます。
つまり、どんなテーマであっても、哲学的な問いを立てることで、
「自分なりに、何度でも物事を洗い直すことができる」、
「見いだした新しい形を自分のものにしていくことができる」のです。

僕はそれらの行動を「哲学する」ことだと考えています。
自らで問いを立て、自らで物事を洗い直し、自分の形を獲得すること。

もちろん、これすらも僕が哲学を哲学したひとつ形でしかありません。
「哲学とは何か」という問いに対しても、沢山の形が出てくるからです。

…そう考えると、「哲学ってスケールの広いものなんだな」と感じません?
天文学も宇宙を舞台にしていてスケールは大きいですが、
哲学は人間を舞台にしていて、天文学とは比較にならないほどスケールが大きい、
そう僕は考えています。


一般的には、哲学書を読むことや、哲学史を学ぶことが
「哲学」だと思われているところもありますが、僕は反対です。

哲学書を読むことも、哲学史を学ぶことも、
哲学する参考にこそなれ、
哲学していることにはならない、というのが僕の考えです。

哲学書は人の考えをなぞるものですし、
哲学史は学問としての哲学がどう変遷していったかを知る手だてです。
自分で設定し、洗い直しをかけてはいないからです。

だから、僕は「何の役にも立たない」と思われている、
「学問としての哲学」に対してはとてもがっかりしています。
哲学書や哲学史の研究をし、それを哲学なのだと学生に教えるわけですから。

哲学書や哲学史に触れた人が「哲学をする人」と思われ、
彼らから「哲学のイメージ」ができあがることがとても残念です。

「学問としての哲学は学問の域を出ない」だろうと思いますが、
僕の考えている哲学は、有用にも無用にもできる万能の代物です。

ありていに言えば、哲学は、人を幸せにも悪にもできますし、
もしかしたら、幸せと悪を行ったり来たりしたり、
融合したりだってできるかもしれません。

哲学がそういう可能性をも孕んだものだということが知られていないことを、
とても残念に思っています。


哲学することは、どんな物事に入る前にもその本質を考え、
見失わないようにするために必要な行為でもあるというのが僕の考えです。

たとえば、政治哲学、法哲学、科学哲学…。
どの哲学もが政治や法律や科学の根本を問い直すための領域です。
政治哲学があるから、政治家はぶれないことができますし、
法哲学があるから、法曹は法の運用について適正と思える判断ができます。

一歩踏み込んで言えば、
たとえば、今の世の中の教育には、
「教育哲学」自体が足りないのではないかと思えます。

教育とは何か。
それは、「ゆとりがよい、悪い」という判断ではありません。
教育を出発点にしてどこまで考えたのかという、
教育を哲学した量のことだと思うのです。

そして、それ自体が不足していることが大きな問題だと思うのです。
学力テストが高いことが教育なのか。
それとも、生きる力のように、漠然としたものを教育とするのか。
何もかも盛り込むようなものが教育なのか。

どんなことでもそうですが、
与えられた形をそのまま受け入れ(拒否し)、判断を下してしまう現代の傾向は、
哲学をする姿勢から見れば、とても危なっかしい状態にも思えてくるのです。
時代のせいという言い訳をくっつけて、
誰もがちょっと立ち止まろうとすることを忘れさせます。


大事なことは、自分の頭で考えること。
そして、その考えをもまた問い直すこと。

それだけの力が人間にはあるというのが僕の考えです。
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>冬目漱石さん

初めまして。
コメントありがとうございます。

生きるとは何か??

v-4 v-1
  はじめまして。
この新しい年はどのような年になるのでしょうか。

人間が生きて行く途上で、様々な試練や悩みがあります。
最近、「生きる意味が分からない。死にたい」という人が急増しているように感じます。

明日に希望が持てない不安な時代でもあるからでしょう。

しかし、こんな言葉を最近聞いたことがあります。
「あなたが”死にたい”と思って無駄に過ごした今日は、昨日死んで行った人が懸命に”生きたい”と思って努力した明日なのです。」

人は一体、何のために生きているのでしょうか。
人はどこから来て
何のために、勉強し、働き、生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
なぜ、人は孤独なのでしょうか。
愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。
ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)                   

「生きる目的は一体何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705

「人生の目的と意味は何か」:
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/d/20060519   
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    NAME: Masatoshi
    LIVE: Aomori city, Japan
    engineer/ study chinese/ travel/ reading/ movie/ coffee/ chocolate/ apple's/ airplane/ law/ philosophy/ radio/ blood donation

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